徳本上人を訪ねて

全国を行脚した漂泊の念仏行者。日高ゆかりの徳本上人を偲ぶ。
江戸時代、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで、人々を救った徳本上人。
江戸時代、全国各地を行脚した「木食僧」の1人で、生涯を民衆の中に生きた念仏行者として知られます。

徳本上人木造坐像

徳本上人木造坐像京の仏師、西田立慶が彫ったもので、享和初期(1800年代初め)の作といわれます。
 かねてより徳本上人を敬服していた立慶は、箕面の勝尾寺で上人の姿を目にするや、たちまちその尊厳さに打たれ、御姿を後世に残したいと上人に直接願い出たといわれます。こうして、毎日念仏の苦修を続ける上人の姿を目に焼き付けた後、ただちに京都に舞い戻り、寝食を忘れて一気に彫り上げたものがこの像といわれます。誕生院所蔵。

誕生院

誕生院開山者として、徳本上人を祀る浄土宗の寺院。文政7年(1824)の開基で、上人の誕生地にあることから、紀州藩主・徳川治宝の許可を得て、後に誕生院と称するようになりました。本堂は嘉永4年(1851)、徳川治宝の命により建立されたものです。


誕生院上人ゆかりの遺品を多く所蔵し、寺の裏手には上人幼少期の行場跡や上人の舎利・遺髪を納めた名号塔があります。
 生家跡は「徳本上人誕生遺跡」として、県の史跡に指定されています。

徳本上人は、宝暦8年(1758)6月22日、日高町志賀に生まれました。数えでわずか2歳の年、姉に抱かれながら、月に向かって「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったとかの逸話が残っており、幼いころからすでに強い出家の意思を抱いていたようです。
 天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けました。また、水行をしたり、藤の蔓につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたことも伝えられており、行場跡も多く残っています。
 寛政6年(1794)ころから始められたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほど広い範囲に及んでいます。
 上人の足跡を物語る石碑(名号碑)は、全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けています。